伊賀くみひもの歴史

伊賀くみひもの始まり
「伊賀くみひも」の歴史は古く、奈良時代、仏教伝来とともに組紐技術が大陸から伝えられたとされていますが、残念ながら当時の資料はほとんど残っていません。
現存する伊賀で発見された最古のひもは、久米山古墳群発掘調査の際に見つかったものです。
このひもは四神鏡の背面の鈕(ちゅう)とよばれるつまみに通されており、製作時期は古墳時代にあたる4~5世紀のものと推測されています。
伊賀地方に組紐産業が根付いた地域背景
伊賀地方で組紐が長年にわたり、産業としての基盤を整え、現在にまで至っているのは、複数の要因が重なった結果であると考えられています。
◆伊賀盆地が原材料の養蚕(ようさん)が盛んであったこと
◆和装商品の本場である京都に近かったこと
◆伊賀の気候・風土が温度、湿度に敏感な絹糸に適していたこと
◆交通の便が悪く他の産業もなかったこと
他にも、観世流、能楽の創始者である観阿弥(1333年-1384年)にみる芸術性、俳聖と称される松尾芭蕉(1644年-1694年)を生み出したような豊かな感受性や、伊賀忍者の忍耐を受け継いだ地域性などが重なり、伊賀くみひもは芸術性と実用性を兼ね備えながら、地域産業として根付いています。
伊賀くみひもの歴史年表
古墳時代

奈良時代

埴輪の服飾に簡単な組織の組紐の装飾が確認されています。この事より古代の人々は衣服に組紐を 用いていたことがわかります。
国宝-埴輪 挂甲の武人(古墳時代・6世紀製作)
10か所に見られる蝶結びから、紐で結んで甲を着装していたことがわかります。挂甲は右衽(みぎまえ)に引き合わせて結び、膝甲、臑当は後ろで紐を結んでいます。
仏教伝来とともに大陸から組紐技術が伝えられました。当時、組紐はは経典や袈裟などに用いられ、奈良の正倉院に残っている楽器には、古代紐が飾り付けられています。
重要文化財-金銅透彫金具装(飛鳥~白鳳時代・7世紀製作)
大変鮮やかな赤と淡紅・黄緑・紺の各色糸に、金・銀糸を加えて組みだした一際華麗な唐組と呼ばれる組紐。
平安時代
都が奈良から平安京に移り、組紐は王朝貴族の衣装に欠かせない束帯(そくたい)に用いられ、芸術性の高いものに発展しました。
鎌倉時代

武士の時代になると主に武具の用途に使用され、芸術性の高いものから実用的なものへと変化していきました。
組紐は主に武具の付属品として使用されるようになり、色彩も落ち着き実用性が重視され、組紐の技術も発展しました。
国宝-赤糸威鎧 兜、大袖付 附唐櫃(鎌倉時代製作)
随所に八重菊模様の金具を散らし、兜と大袖に力強い「一」文字があることから「菊一文字の鎧兜」と呼ばれています。
南北朝時代
室町時代
南北朝時代末期、伊賀に発祥した、観世流(かんぜりゅう)の能楽では、衣装や面などに組紐が用いられました。観世流、能楽の創始者である観阿弥(かんあみ)は伊賀が生誕の地であり、深いつながりがあります。
戦国時代
芸術性と実用性を兼ね備えた組紐は武具への用途以外にも、 茶道具の真田紐と呼ばれる、飾り紐にも利用され、活用範囲を広げました。
忍術兵法書の「萬川集海(ばんせんしゅうかい)」(1676年完成)全22巻付録3巻のうち、第13巻には「下げ緒七術」に使われた下げ緒の紐が記載されいます。このことから、戦国時代末期には忍者にも使われていたことがわかります。
江戸時代
明治時代
日本刀の飾紐として需要が急増しました。そのため、武具装身具の職人は幕府の保護を受けて江戸に居住し、互いに技巧を競い合いました。職人たちが切磋琢磨する中で、組紐の組み方の種類も増え、実用性の高いものから、芸術性の高いものまで使われるようになり、人々の生活に根付いていきました。
明治時代の廃刀令により、組紐はかなり痛手を受けて衰退していくことになります。しかし、明治に入ってから東京から組紐の技術を入れることで、江戸組紐の糸組工場を設立しました。
くみひもを帯締め・羽織紐等に活用するなどをして、江戸組紐の技術が伊賀に伝わることで地域産業としての復活と本格的な発展を遂げました。
昭和


国に歴史的価値と文化的価値を認められ、昭和51年(1976年)に三重県で初めて経済産業大臣指定伝統的工芸品の指定を受けました。
このころに、伊賀の町にくみひもに関する記念碑が多数建立されました。
上 組紐顕彰碑、場所:伊賀上野城入口近く
下 組紐創業の地の石碑、場所:伊賀市上林の持仏寺近く
平成

伊賀上野城の敷地内にある俳聖殿、平成に入り重要文化財に指定されました。伊賀上野城近くには組紐顕彰碑や伊賀くみひも関する建物があります。
令和
伊賀くみひもの産地として大きく発展し、特に手で組みあげる手組紐は、全国生産額の大半を占めています。
伊賀くみひもは時代によってその姿を様々な物に変えながら、現在にまで息づいています 。